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2025/08/09 13:18
芦名義広といえば摺上原の戦いで伊達政宗と戦った戦国大名だ。
この芦名氏は鎌倉時代から政宗に滅ぼされるまで会津に本拠を置く奥羽の大大名であった。
芦名盛氏の時に最盛期を向かえ、隣国佐竹、上杉、伊達としのぎをけずる。
上杉と伊達が領地をめぐり争った事があったが、芦名盛氏が仲裁した事もあったという。
この頃の芦名氏はそれくらいの大きな力があったと見る事ができる。
芦名盛氏は正妻、伊達稙宗の娘。嫡子は盛興。
さらに盛興と晴宗の娘が婚姻し、2代続けて伊達家と縁を結ぶという同盟関係を築いた。
しかし、盛興は若くして病に倒れた。
盛興に嫡子はなく、すぐに二階堂氏から養子を迎え入れ、盛隆が当主となった。
妻は晴宗の娘を輝宗の養女して再嫁させ、同盟関係の継続をはかった。
この頃の政宗はまだ近隣を掌握したのみで芦名に勝てるほどの勢力はもっていなかった。
芦名家安泰かと思われたが、男色のもつれか、大庭三左衛門が盛隆を切り殺してしまう。
またも芦名家後継問題が勃発する。この後継問題に伊達政宗と佐竹義重が介入する。
次期後継者に政宗は弟の小次郎を義重は次男、義広を推す。
先々代からの流れでいけば小次郎で決まりのはずであったが、佐竹が勢力を増大させ、芦名、二階堂、岩城など従え、強引に義広を芦名の後継者にした。
政宗が怒るのも無理はない。芦名はもともと伊達よりであったはずである。
なぜ佐竹がという思いは強いと思うが、武田、上杉、北条と渡り合った佐竹義重の政治力が政宗の上回った。
芦名は義広が当主となり、佐竹、芦名連合に相馬、岩城、二階堂、大内などが参戦する。
政宗は運よく佐竹を撤退させ、芦名義広と摺上原で決戦に及び、芦名を滅亡へと追い込んだ。
義広は芦名氏が鎌倉時代からの金銀財宝を会津黒川城から運び出し、常陸佐竹の本拠に逃走した。
色々な書籍には義広は会津黒川城から夜に家臣数十人で一機に常陸へ落ち延びたと書かれる事が多い。
しかし、芦名側の書物には100頭ほどの馬に積めるだけつんで、東山温泉から飯盛山と通り、猪苗代湖西岸を経由し、須賀川から相馬領を通り常陸へ逃げたと伝わる。
電光石火で襲い掛かる政宗軍の追撃を恐れた義広は泣く泣く猪苗代湖の南岸あたりに金の延べ棒や財宝を猪苗代湖に沈めたという。
義広はその後、佐竹義宣の家臣となり、佐竹義勝と名乗り、角館で生涯を終える。
猪苗代湖にもどり軍用金を探した形跡はないとの事だ。
政宗が黒川城に入城した際の事はあまり詳しく載っているものを確認した事がないのでよくわからないが、財宝を手にしたというのは聞いた事がない。
安土城の信長の財宝は明智光秀が収得し、家臣、公家などに分け与えたと伝わる。
ほんとうなのか、とても興味深深である。
1993年に猪苗代湖東岸を発掘調査したグループがいたという。
地元には言い伝えや古文書、伝説などがあるようだが、信憑性はあると思う。
秀吉政権、家康政権下で政宗と義広は会った事はあるのだろうか。
義広に財宝はどこにやったんだ?なんて聞いたりしたんでしょうかね。