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2025/08/09 14:27
伊達家と芦名家は度々干戈を交えているが重縁で結ばれている。
伊達稙宗の正室は芦名盛高の娘で晴宗を生んだ。
伊達稙宗の娘は芦名盛氏へ嫁ぐ。
晴宗の娘は芦名盛興に嫁ぎ、盛興が早世後は芦名盛隆と再婚している。
その芦名盛隆が家臣に殺害され、幼くして後継となった亀若丸もわずか3歳で亡くなる。
その後後継者をめぐって芦名家中は伊達派と佐竹派に分裂し内乱状態となった。
今までの血縁からいくと伊達から政宗の弟小次郎を立てるのが筋ではあるが、
佐竹氏はこの頃常陸から北関東、南奥羽を勢力圏を持ち、芦名に対しても影響を及ぼす存在になっていた。
ちょっとその前に実は佐竹と芦名は争っており、上杉謙信の取り成しで和睦している。
佐竹派は佐竹義重の次男で当時は白川結城家を継いでいた義広、後の盛重を推した。
伊達政宗は芦名の後継争いに干渉し、ほぼ小次郎で決まっていたが、
佐竹義重の謀略で大逆転。
次男義広が芦名二十代当主となった。
政治力と謀略では一枚上手の佐竹義重。
政宗まさかの逆転劇に呆然としたいう。
芦名を奪われたいう事は黒川(会津)が佐竹方になったという事だ。
これにより近隣諸国の小大名はこぞって佐竹義重に従った。
政宗の叔父である石川昭光までも佐竹方についたのだった。
政宗を危険視する近隣諸国が佐竹義重を大将とし連合軍が結成された。
そして人取橋の戦いへと進んでいくのである。
この窮地を政宗は引き分けに持ち込み結果判定勝ちを勝ち取った。
そしてついに芦名討伐を決意するであった。