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2025/08/13 15:44
幼名は次郎。
従五位下大和守。 伊達晴宗の第四子として生まれ、磐城石川郡石川晴光の嗣子となる。
晴光の晴は足利義晴から拝領している。
昭光の昭は足利義昭から拝領している。
石川氏は源頼親の末裔で物津源太有光を祖とする。
源義家の代官として石川郡に居を構え、仙道七郡を領し石川冠者と呼ばれていた。
天正17年に政宗の麾下に属する。
秀吉に領土没収され伊達家に仕え一門の上座となる。
伊達成実よりも上座になる。
政宗の麾下であった為、小田原参陣しなくても良いという判断であったが、秀吉は一大名と見ていたので没収というはめになった。
志田郡松山に移って一万石を領し、伊具郡角田城に住んだが嫡子義宗に家督を譲り柴田郡村田で隠居した。
義宗は34歳で没し摘孫宗敬が跡を継ぐ。
宗敬が幼少であった為昭光が再び角田城にて政務を執る事になる。
大坂の陣では政宗に従い大坂道明寺口で首級五を得た。
元和八年、七十三歳で没する。
角田の長泉寺に埋葬される。
文禄九年秋伊達家の重臣が政宗への忠誠起請文を秀吉に提出したがその連署の筆頭に石川義宗の名が見える。
義宗の義はたしか佐竹義重の義だったと思う。
石川昭光は政宗に敵対し人取橋では佐竹方であったが為に伊達成実は昭光を認めていなかった。
母は久保姫、裁松院。