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2025/08/13 16:03
興純(おきずみ)。
は伊達氏の祖・伊達朝宗の四男、為家の末裔と伝えられる武将で、伊達郡霊山を拠点としていた。
十四、五歳の頃、伊達政宗が伏見滞在中に仕官し、やがて近習として仕えるようになる。
伏見時代の政宗は豊臣政権の監視下に置かれ、軟禁に近い状況だったが、興純はその傍らで政宗の苦悩や思いを聞き支えたとされる。
政宗の伏見時代を直接知る数少ない家臣の一人でもあった。
慶長年間の初めには、現在の宮城県岩沼市に居を構えていた。
大坂の陣では軍功を挙げ、その忠義と武勇を示す。
元和9年(1623)、政宗が没した夜、霊柩に先立って江戸へ向かい、同年6月21日、若林の私邸にて殉死を遂げた。
その辞世は「曇りなき月のあととふ山のはの道も涼しき松風の音」。
政宗に特に寵愛された近習として、その生涯は主君への忠義一筋であった。