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2025/08/13 16:36
はじめ助太郎。
のちに安芸で藤原姓。
式部大輔景時の時に晴宗に仕え家臣となる。
景時の長子、光時は天正十年に相馬氏と戦い戦死。
次男、重光が家督を継ぐ。
政宗の代に一家に列せられ名取郡岩沼に八千石を賜る。
重光は相馬との戦い、二本松城の攻略にも従軍する。
大崎合戦の時に留守政景とともに総大将として出陣するも大敗し、味方の撤退帰還を条件に人質なる。
重光は長江月鑑斎とともに大崎方へ移送されるが、長江月鑑斎は最上家臣になる事で開放あれるが、重光は最後まで聞き入れず幽閉される。
政宗、義光ともにどちらも譲らず、膠着した所に義姫が仲裁しようやく和議がなった。
摺上原に出陣したが、このとき重光は安子ケ島に出陣した。
小田原の陣には政宗に従って小田原へ供奉し、翌年の九戸の乱にも出陣、つづいて大崎・葛西一揆の鎮圧にも出動して一揆鎮圧に活躍した。
文録の役にも従軍するなど、連年にわたり政宗に従って戦陣に明け暮れた。
そして文禄四年、東山薄衣に所替えとなり、慶長元年(1596)に波乱の生涯を閉じた。
重光は男子がなかっため、亘理重宗の次男重時を娘婿に迎えた。
重時は元和元年(1615)の大坂の陣に出陣して戦功をあげている。