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2025/08/13 18:12
初め金四郎、新左衛門、のちに肥前。
伊東肥前と呼ばれる。
藤原鎌足三十三世孫で伊達持宗以来の世臣。
人取橋の戦いでは侍大将を命ぜられ高倉城を守る。
みずかららも敵二騎を討ち取る活躍を示し、このときの戦功により次男に采地を賜った。
同十五年、伊達氏から出て国分氏を継いだ彦九郎の政事に飽き足らぬ国分家臣たちが騒動を起こした時、重信は代官として名取郡北目城番となり騒擾の収拾にあたった。
天正十六年、大崎出陣の陣触れのため内馬場尚信とともに、伊達の西根・東根・刈田・柴田・伊具方面に遣わされた。
同年七月、安積郡窪田の陣において佐竹・葦名の連合軍と戦い奮戦したが伊達政宗の身代りとなって戦死、安積郡郡山に葬られた。
政宗の身代りとなり奮戦した。
政宗の身代りになった人は沢山いますが、この人が一番最初といったイメージがあります。
松島に伊東重信がつけた甲冑があるそうです。