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2025/08/14 12:38
初め太郎左衛門、勘解由左衛門、最後は簾也斎。
祖は西国の多々羅氏で大内氏とは同族との話もある。
佐竹、葦名、伊達に挟まれ、去就反復を繰り返すが、最後は伊達の家臣となる。
政宗が当主になった時に政宗に挨拶しにきたが、その後ツバをかけて政宗を片目の小僧と呼んだ大内定綱。
片倉景綱を介し弟、片平親綱とともに伊達家に臣事した。
摺上原の戦いでは自ら左翼隊の将として十文字槍で奮戦した。
槍の名手で、千葉弥平左衛門を仕留めるなど、武功は多い。
前沢牛で有名な前沢を居とした。
関ヶ原では伊達上屋敷で留守居役で情報を逐一送っていたという。
その功により嫡子重綱は伊達家の一族になっている。
人でなし、裏切り者のレッテルを張られている大内定綱。
冷静に見ると大国の狭間にいた弱小豪族で裏切りはしょうがない。
真田昌幸ですら武田、北条、徳川と靡いて表裏卑怯者と呼ばれている。
どこかの勢力に属していないと潰されてしまうのである。
しかし、何度も政宗を裏切ったが、政宗はよく我慢して使ったなと思う。
謀略も出来き、武勇もなかなか。
十文字槍で敵を倒し奮戦する、伊達家臣団の中でもなかなかの武将だと思うのである。
あの大内定綱が伊達政宗の家臣になり、明治まで続いたというのはかなりの驚きだ。
猪苗代盛国の猪苗代はお家断絶になっているが、定綱はやはり優れた能力を持っていたに違いない。
朝鮮の役、関ヶ原などの活躍で政宗は定綱を信頼していたのが、この男抜かりないと思わせる。
真田昌幸のように、強国と強国に挟まれ、最後まで生き残った。
もっと評価されて良い武将だと思う。